すっかりオシャレな街となり、「京王線の自由が丘」と呼ばれる仙川。
そんな仙川ですが、歴史の教科書にでてくるような偉人にゆかりがある街だとご存じでしたか?
ここでは、仙川にある史跡とゆかりのある偉人についてまとめてみました!
武者小路実篤(1885〜1976)
近代日本文学・白樺派の代名詞とも言える文豪・武者小路実篤(1885〜1976)。

武者小路実篤は晩年70歳(昭和30年)頃から亡くなる1976年(昭和51年)まで仙川の邸宅で過ごしました。82歳の頃に仙川の家で書き上げた自伝的小説「1人の男」が「新潮」にて45回連載で発表されています。
76年に実篤が死去した後、仙川の広大な敷地と邸宅、遺品は調布市に寄贈されました。現在は調布市立武者小路実篤公園として一般公開されています。
住宅街に突然現れる実篤公園の入口。ここからは想像もつかないくらい敷地は広大です。
敷地の中には池や散歩道などが整備され、季節の花を楽しむことができます。敷地内にはわずかながら、都内で唯一ヒカリモが生息していることでも知られています。
邸宅の中は一部外からも見えるようになっていますが、実篤の遺品も全てそのままになっています。
まるでつい先ほどまで実篤が執筆をしていたかのように、文机や懐中時計、万年筆などが飾られています。
調布市立武者小路実篤公園
営業時間:9:00~17:00
定休日:月曜日
住所:調布市若葉町1-23-20
電話番号:03-3300-7607
安部公房(1924〜1993)
日本を代表する作家・安部公房(1924〜1993)。

安倍公房は35歳の1958年頃から約20年近く今の若葉町に住んでいました。その間、『砂の女』『他人の顔』『密会』『箱男』などの作品が仙川の邸宅で完成したと言われています。
若葉町に残っていた安部公房の邸宅は長く空き家だったようですが、2014年の2月頃に惜しまれつつ取り壊されました。その時に雑誌などで特集されたようです。下記リンクの記事に邸宅内の写真が掲載されています。
【デイリー新潮】取り壊される、安部公房「砂の女」の生まれた家
安部公房の邸宅跡は現在は個人のお宅が建っているために、ここで詳しい住所を記載はいたしません。しかし邸宅跡は、「国分寺崖線緑地保全地域」のすぐ近くにあります。
「国分寺崖線」とは?
「国分寺崖線」とはかつて多摩川が削ってできた河岸段丘で、崖の上からは野川、多摩川が見える素晴らしい景色が見えます。また「国分寺崖線」の周りは雑木林、緑地や湧水地などが多数あり、この景観と自然を守るために調布市が「国分寺崖線緑地保全地域」に指定し環境保全に努めています。
安部公房の愛した仙川に残る自然をめぐるお散歩ルートは東京都の保全地域HPに掲載されています。
柴田勝重(1579〜1632)
柴田勝重(1579〜1632)は織田信長の家臣として有名な柴田勝家の孫です。

大坂の陣(1614年)の活躍により現在の三鷹市新川〜仙川までの地域「上仙川村」「中仙川村」の領地を拝領し統治していました。
かつて仙川の地域を治めていた柴田勝重をはじめ、柴田家三代の墓は勝淵神社にあります。
また勝重が祖父・柴田勝家から譲られた黄金の兜が埋められているとされる兜塚もこの神社内にあります。
神社の周りから見える景色は格別です。
勝淵神社
住所:三鷹市新川3-20-17
勝淵神社と兜塚【東京神社庁HP】
近藤勇(1834〜1868)
幕末に活躍した新選組局長・近藤勇(1834〜1868)

幕末に活躍し、今もファンが多い新選組局長・近藤勇は調布市の出身であることは有名ですね。宮川家から養子として近藤家に入り近藤勇と名乗り、幼馴染の土方歳三らと結成した「新選組」の局長として歴史にその名を残しました。
今、現在も「新選組」と近藤勇の生き方は、人々を魅了してやみません。
現在、生家の宮川家跡地は調布市野川にあり、記念碑と井戸が残されています。
3カ所ある近藤勇の墓所のうちの1つは三鷹市の龍源寺にあり、近藤勇の胸像がたっています。
近藤勇がまだ調布に住んでいた頃、自身が道場主を勤める天然理心流の普及のために方々に出稽古にでていたようです。そのうちの1つが仙川にあり、近藤勇は頻繁に仙川に来ていた記録が残っているそうです。
現在、仙川の道場跡は個人のお宅になっているのですが、キューピーマヨテラスの甲州街道をはさんで向かい側。マンションのプラウドの近辺だそうです。
調布市内とその近辺には、近藤勇ゆかりの史跡がたくさんありますので、ぜひとも巡ってみてくださいね。